ジャニー氏がSMAPをバラエティ番組へ進出させた
男性アイドルの歴史は、SMAPを分岐点に大きく変わったと言われる。7月10日に亡くなったジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長は、どんな思考で彼らをプロデュースしていったのか。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の中で、ジャニー氏のプロデュース力やエピソードを細かく解説している、芸能研究家・岡野誠氏が考察する。
ジャニー氏がSMAPをバラエティ番組へ進出させたことは、大きな功績として知られている。だが、それだけでなく、ジャニー氏はSMAPに対して、それまでのグループとは違う戦略を、もう1つ立てていた――。
SMAPが結成された1988年、ジャニーズ事務所では光GENJIが大フィーバーを巻き起こし、デビュー9年目を迎えた田原俊彦が主演ドラマ『教師びんびん物語』(フジテレビ系)の主題歌『抱きしめてTONIGHT』で復活を遂げていた。
人気歌番組『ザ・ベストテン』(TBS系)ではこの年、52週中51週にジャニーズ事務所のタレントがランクイン。プロダクションとして、1つの頂点を迎えていた。
同年12月5日、NHK紅白歌合戦の出場者が発表され、田原俊彦が2年ぶりに選出される。しかし、前年に紅白落選の憂き目に遭った田原は出場を固辞。ジャニー氏はディナーショーのリハーサル現場を訪れ、スタッフとともに説得に当たったが、田原は首を縦には振らなかった。
話し合いが終わると、ジャニー氏は意外な話をしていた。田原のバックダンサーを務めていた木野正人は拙著『田原俊彦論』の中で、その時の様子をこう話している。
〈僕が控え室に行くと、ジャニーさんがトシちゃんのマネージャーに『(稲垣)吾郎が芝居上手いんだよ』と興奮気味に話していた〉
ジャニー氏は事務所にとって大きな話し合いの直後も、SMAPという新鋭について考えを巡らせていたのだ。
この約10日後、1989年4月開始のNHK連続テレビ小説『青春家族』のキャストが発表され、稲垣の名前が連なっていた。1990年も映画『さらば愛しのやくざ』に出演し、役者としての能力を伸ばしていった。
ジャニー喜多川氏の先見の明、SMAPを成長させた異例の戦略男性アイドルの歴史は、SMAPを分岐点に大きく変わったと言われる。7月10日に亡くなったジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長は、どんな思考で彼らをプロデュースしていったのか。著書『田原…
Twitterでも話題
ジャニーさんが昔こう言ったの。「歌とダンスができるだけじゃなくて、これからは司会もコントもできて、番組を成功に導ける人が必要。それでね、笑いのセンスがありそうな子たちがいるから見てくれない?」。それがSMAPだった。そして彼らは、本当にそうなっていった。
— 萩本欽一(NHK欽ちゃんのアドリブで笑) (@nhk_kinchanshow) 2019年7月12日
日経11日朝刊企業面 ジャニーさん死去を報じて
「SMAPは喜多川氏の目指すショーアップしたスター性から逸脱したアイドルだった」が「SMAPの多様でありつつ孤立しないというイメージは平成の若者の共感を呼ぶ。SMAPはアイドルビジネスのイノベーションだった」記事の約半分がSMAPについて。— sanfeliche (@sanfeliche) 2019年7月12日
いつも理不尽なことをおかしいと言ってくれる加藤さん。加藤さんなりに「久々に」SMAP見たけどかっこいいなぁって言ってくれてるんだよね。
SMAPを産んでくれたジャニーさんには感謝の気持ちでいっぱいです。#SMAP #スッキリ pic.twitter.com/ujqS0r4Juj— hana (@yuzuhana1119) 2019年7月10日